神田小川町から御茶ノ水の坂を昇っていくとニコライ堂の独特なドームを眼にします。今の季節は緑に囲まれもっとも美しい季節だと思います。ニコライ堂の聖堂は、高さ約34.5メートル、鐘楼の高さは約37.7メートル、建坪は約1,050㎡あるとのことです。今から50年ほど前に最初にニコライ堂を眼にした時は「低層建築の多い街並みの坂の途中にどっかりとしたドームがそびえ立ち」印象的でしたが、今は周囲を高層ビルが立ち並び、高さ34.5メートルの高さを誇った鐘楼もビル群に埋もれていいます。
建築の様式は、ビザンチン式が基本で、壁が厚く窓が小さく、中央にドームがあり、外からみると壮大で堅牢ですね。細かい部分にイギリスのロマネスク風やルネッサンス式が巧みに取り入れられているのは、イギリス人のジョサイア・コンドルが工事監督にあたったからとも言われています。ニコライ大聖堂が建てられた駿河台は、江戸時代は定火消の屋敷跡で、火の見櫓が高くそびえておったそうです。ニコライがはじめてロシアから、明治5年(1872)に東京に来たい際、高台に建つ火の見やぐらを見て「ここに大聖堂」と心に決めた所で、ロシア国公使館の付属地でもありました。
最初の大聖堂は、ロシア人であるシュチュールボフの基本設計、ジョサイア・コンドルの監督設計、長野泰輔の工事責任で、明治17年(1884)に工事が始まり、約7年かかって明治24年(1891)に完成しました。しかし関東大震災(1923)ではニコライ堂が崩壊しました。鐘楼が倒れ、ドーム屋根が崩落し、火災が起き、聖堂内部をすべて焼き尽くし、貴重な文献や多くの書籍なども焼失してしましまったようです。今の「構造計算があれば」とは思いますが・・120年前では仕方ないですね。
日本正教会は明治の後半から大正、昭和にかけて苦難の時代を迎えます。 まず日露戦争(1904-05)によって日本とロシアの関係が悪化。その後ロシア革命(1917)という資金的援助が無くなるとい決定的打撃を被りました。日本正教会は物理的にも精神的にも孤立無援の状態となりました。さらにその後の第二次世界大戦につながる政治的な統制を受ける困難な時代を迎えました。戦後、日本正教会はロシア革命以来共産主義政権下に閉じこめられていたモスクワ総主教庁との事実上の断絶関係の中で苦労をしてきました。そのような時代のうねりのなかで、ドーム建築は守られ、再建され信仰の砦としての役割をはたしてきた歴史の重みを感じるニコライ大聖堂でした。