館林はつつじの花で有名ですが、個人的には「蓮の花」のほうがきれいに咲く街だと思っています。かっての利根川の氾濫で多数の沼や湿地があるため蓮の花をよく見る機会が多く、湖沼の多い北関東の街では眼を楽しませてくれる機会に恵まれています。また沼地は清水ではなく濁った泥水です。一説では泥水が濃ければ濃いほど、蓮の花は大輪の花を咲かせるとも言われています。そのことから仏教では泥水とは人生におきかえれば「つらいこと、悲しいこと、大変なこと」を意味しており、人生にたとえて真水に近いようなきれいな水である場合、蓮の花は本当に小さな花しか咲かせないとのことです。大輪の花を咲かせるためには、ものすごく汚い泥水(人生の苦難・辛さ)が必要と言われているようです。蓮の花は泥水の中からしか立ち上がってこないのです。仏教では蓮の花とは、まさに人生の中で花を咲かせること、そして、その花の中に実があるのが 「悟り」 ということになるそうです。つらく悲しい思いがなければ、人間は悟ることがないというのが仏教の教えのようです。ま~一般的には私のように凡人は「辛いこと・悲しいこと」は避けるように生きていくのが常ですが・・そのような苦難の人生があっても、仏教では「悟り」がある花の咲く人生が最後には待っているということでしょうか。
また蓮の花は、仏像の台座にデザインされているだけでなく、仏像の手に持たれていることもあります。蓮の花は仏教の教えを象徴する花です。 お釈迦様が生まれ歩み始めたとき、大地が割れ大きな蓮の花がさきました。お釈迦様はその蓮の中にたち「天上天地唯我独尊」と第一声をあげたといいます。このことから、蓮は仏教で仏の座とされます。それから仏像は蓮の花(台座)の真ん中に立って(もしくは座って)おられます。何気に見ているだけなら不思議には思いませんが、蓮の花の端に座った仏像がないのは視覚的には「安定感」をもたらします。また精神的には「人生をまっとうに生きるには正面きって軸の真ん中に身を置く」というような意味合いがあるとも聞きました。ま・いろいろ解釈はあるようですが、きれいな蓮の花で「ホッ」とできればいいのでしょう。