仙台に行ってきました。なんといっても仙台は城下町でありますから、青葉城を最初に見学するのが1番かと。青葉城は、慶長5年(1600)関が原の戦いの年、政宗により築城を開始されたとのことです。城跡は礎石がきれいに並んでおり(写真)往時の城(居住屋敷)の名残を感じさせてくれます。政宗は家康の警戒を避けるために、あえて天守閣は設けなかったといわれております。当初政宗は、秀吉から岩出山に城をもらいましたが、政宗にとって岩出山は秀吉から押し付けられた城の意識が強かったようです。政宗は「城の移築を狙っており」もっと南で交通の便利な場所を望み、家康から上杉景勝(かげかつ)をおさえるよう協力を求められた時、「取引」として千代(せんだい)に城を移すことを願い出て、許可されたとのことです。慶長5年関ヶ原の戦いが終わると、35歳の政宗は早速城づくりに取り掛かり千代を仙台に改め、翌年4月、まだ工事中の城に移りました。岩出山にいた武士や町人は仙台に移住させられ、城と城下町の建設が、町人や農民を使って進められた。慶長15年(1610)には、豪壮華麗な大広間が完成し(写真)、仙台城はほぼ完成した。青葉城の城跡から見る仙台の街は「高層ビル」が立ち並ぶ北の都になっております。
政宗は秀吉・家康の2大巨人を相手に、胸には天下取りの野望を持ちつつ、秀吉の小田原攻めに死装束で参陣し、秀吉の軍門に下りました。秀吉からは終始「反逆するのでは」という疑惑の目でみられてそれなりに苦しい時代を生きていたのだと思います。秀吉亡き後は、家康と手を組み、奥州の大名として関が原の戦いでは上杉氏と戦い、その後伊達藩62万石の大名として活躍しました。一方では仙台城と城下町の建設など藩政にも力を注ぎ、さらに黒船を建造して日本からヨーロッパ(ローマ、スペイン)へ初の欧州派遣使節を送るなど、国際的な活動にも積極的だったようです。
時代が合えば「天下取り」も夢ではなかった政宗だったでしょうが、戦国時代の豊臣秀吉や徳川家康という希に見る武将の壁が立ちはだかったのでしょう。しかし・・仙台にとっては主君の交代がなくじっくり領地の開発ができたので「街ずくり」ができてラッキーだったと思います。